2013年12月17日火曜日

島根県に現れた不思議な太陽


2013年10月17日島根県を訪れた際に撮ったものです。
「内暈(うちがさ)」
「幻日(げんじつ)」
「環天頂(かんてんちょう)アーク」

三つの現象が重なるとても珍しい大気光学現象です。

2013年12月13日金曜日

オリンピックの身代金とリアリティ

映画ドラマに求められるもの。
ひとつはリアリティ。ファンタジーやコメディ等では、そこは度外視していいけど、シリアスなドラマなら、ディテールには、こだわりたい。謎解きの鍵が、証拠や証言のほんの些細な食い違いや矛盾なのに、時代考証や、季節や曜日の相違、歴史的事実の見落としで、見る気が失せてくることもある。
 「オリンピックの身代金」は大好きな作家、奥田英朗さんの小説をドラマ化したもの。奥田さんは群像劇、いわゆるグランドホテル物が多く、たくさんの登場人物が、事件や問題を通して最終的に収斂していく様はさすがという筆さばきの作家さんだ。テレビ朝日開局55周年記念ドラマということで、出てくる端役まで豪華な俳優陣。あまり、見たことのない若手俳優の刑事役もよかった。
 さて舞台は、東京オリンピック直前の東京。地方からの出稼ぎが、国家プロジェクトの名のもと、過酷な労働環境で、毎日のように命を落としている。映画「3丁目の夕日」と同じ時代背景だが、『貧しくもいい時代』ではなく、今と変わらない、貧しい者が過酷な運命に翻弄される時代として描かれている。(日テレVSテレ朝らしい)
 昭和30年代の最後の東京。もちろん私が知らない時代。「男はつらいよ」や「ウルトラマン」に出てくる日本は、オリンピック後の昭和4050年代。オリンピック前の東京の街は、「男はつらいよ」シリーズの初期に出てくる地方都市といったところだろうか?
 ドラマの方は、精一杯その頃の東京を再現しているのだろうけど、やはり、道がきれいに舗装されすぎてたり(土が見えない)、道路にゴミが落ちていない。セットはほとんど使っていないし、地方都市のフィルムコミッションでは再現に限界があったのだろう。
 ドラマのクレジットに、韓国の陜川郡とあった。どうやら、ここがロケ地のようだ。なるほど昭和30年代の日本の街並みは、韓国の地方都市に近いと判断したようだ、ロケハンの苦労が伺えるドラマだ。

 さて、リアリティついでに言うと、舞台は8月14日から、10月10日までの日本が一番暑い季節。爆弾魔と警視庁の追いつ追われつのドラマなのに、刑事はしっかり背広着て、走った後も、汗もかかずに、息も切れていない。クーラーなんてない時代。扇風機や、うちわを仰ぐ人もほとんどいない。汗だらだらかいて、必死に犯人を追う、そういうところのリアリティの方が、役者の演技をもっと引き立たせると思うけど、どうでしょう?
 最後に、ドラマで最もいい味出していたのは笹野さん!



2013年12月4日水曜日

猪瀬さん、堤清二さんのカーテンコール、東電のアンコール

先週25日、西武セゾングループ創始者、堤清二さんが亡くなった。

西武といえば、1980年代広島カープが強かったころ、唯一日本シリーズでかなわなかった相手でしか知らなかった。しかし、そのころ『ミカドの肖像』という本で、西武一族と皇室の関係を解き明かし、元衆議院議員である父親堤康次郎、その整備鉄道グループの跡を継いだ兄の義明との確執が週刊誌をにぎわしていた。

 兄とは母親が違い父康二郎とも確執のあった清二氏は、唯一与えられた池袋にある小さな百貨店を核に、西友、クレディセゾン、パルコ、あれよあれよという間に巨大流通グループを作った。一時は、ラコステで知られる大沢商会、ファミリーマート、吉野家、インターコンチネンタルホテル・・・どんどん膨らんでいった。

自身も小説家「辻井喬」の名前で作品を発表していた清二氏は、パルコ劇場を開き、演劇や文化の振興にも力を入れ、80~90年代の日本のカルチャーに大きな影響を与えた。今、東京の演劇を見ると、若い人だけでなく中高年もいる。清二氏が広げた演劇人口の最初の人たちかもしれない。

西武、堤一族の秘密を書いた『ミカドの肖像』は、今の都知事、猪瀬直樹さん。その後も官僚の天下り先に流れる巨大利権を追及したり、副都知事、都知事になりながらも、言いたいことは言うスタイルがよかったが、奇しくも同じ25日に徳洲会からの献金?問題が浮上した。日本一きな臭い政治家、徳田一族と関われば危ない道を歩む。そんなこと猪瀬さんが知らないはずがない。

繰り返し東京電力に強気の発言をしている猪瀬さん。オリンピック東京招致という大仕事を終えた今、そろそろ退場させたがっている勢力がある、と言ったら、すこし“劇”てきでしょうか?

2013年11月29日金曜日

「BILLY BAT」と漫画家の使命

1122日、いい夫婦のゴロで結婚式や、夫婦のイベントにこの日を選ぶ人、あるいは企業が多いが、実はジョン・F・ケネディの命日。昔は、落合信彦さんの本を読んで、真相が明らかになるまでは死ぬわけにはいかない。なんて思ったものだが、今年は暗殺から50年目、さらに、娘のキャロラインさんが駐日大使になるなど、にわかに胸騒ぎがする。

日本で絶大な人気の漫画家の一人、浦沢直樹さん。パイナップルARMY』『MASTERキートン』がよかった。『20世紀少年』は途中で断念したけど、現在執筆中のBILLY BAT」は、このケネディ暗殺を扱っている。戦後、GHQ支配下の下山事件を扱ったかと思うと、戦国時代に話がとんだり、赤狩り、ケネディ暗殺犯オズワルド、公民権運動が広がりを見せる中でのアメリカ南部の最深部、冷戦、そして月・・・・・。物語はあちこち時空を飛ぶが、同じように、そこには、謎の巻物と不思議な蝙蝠も飛び回る。キリストとユダ、アインシュタイン、ヒトラー、白洲次郎・・・・。
内容は読んでいただくとして、この物語の主人公は、漫画家。表現者、芸術家とでもいおうか?社会に真実を伝える、問題を提起する、よりよい社会を作っていくのは、政治家やジャーナリストに限ったことではなく、漫画家だって・・・という気概が、この本にはある。手塚治虫の作品がちらと出たり、紙芝居屋から漫画家に転身する雑風先生。そして何かに突き動かされ筆を走らせる漫画家ケビン。
「マンガ」はクールジャパン流行の今、完全に市民権を得たが、浦沢直樹さんは、ここにきて「漫画家の使命」を問い直しているのかもしれない。誰かに操られる歴史。歴史は勝者が都合いいように作り変える。真実とフィクション。マンガというフィクションが持つ力とは?インスピレーション(あるいは啓示)とコウモリ・・・・。浦沢さん流の洒落たハートウォーミングな回もあるけど、開くページごとに、「漫画家の使命」「フィクションの持つ力」を浦沢さん自らに問いつづけているのだ?と考えながら読んでいる。


某ネズミのキャラの商売をチクリとするところもフィクションの力の一つかも。相手の力は巨大すぎるけど。

2013年11月19日火曜日

「腸を絶つ景色、空海様のみた景色」


一気に冷え込んで、夏の暑さがうそのような季節。紅葉の美しい季節になった。自然の猛威にひれ伏すこともあれば、四季の美しさに心洗われることもある。こうやって日本人の感性や思考が出来上がっていくのだなあと、季節を重ねると、わかったような気がする。

 弘法大師空海様の詩の一部に次のものがある。まだひらがなが無い時代(一説には、ひらがなは空海様が作ったといわれている。漢字のみでは表現できない大和言葉を表すものとして作ったと・・・)なので原文は漢字のみ。

池鏡(ちきょう)、無私にして
万色(ばんしき)、誰か逃れん。
山水、相映じて、
(たちま)ちに見て、腸を絶()つ。

日光補陀落山開基の勝道上人をたたえる詩で、池鏡とは補陀落山(男体山)の眼前の中禅寺湖のこと。
鏡のような湖面は、無私である。私とは、主観や主語の主の意味、つまり、あれこれ想念の起きるものではなく、無とか禅の境地のようなもの。万色とはすべての景色のこと、何一つ逃さず湖面に映す。湖面に映った山は、さらに溶け合い山に水面が映ったかのよう。腸は、内臓というより、人の器官(英語ならOrgan、人間のすべての体内器官)で、その風景を見れば、たちまち、人間のすべての器官を止めてしまうほどというもの。
この季節であれば、中禅寺湖の湖面に映る紅葉のことかもしれないが、歌を詠んだ空海自身が日光に行ったという記録はない。最後に、腸を絶つ、とあり、すべての人間の感覚や動きを止めるとあるので、ただ単純に、「美しさ」を詠ったものでもない。「美しい」「きれい」といった観念的なものを超越して、人をはっとさせる「何か」が、かの地にはあると、空海様は詠っている。若いころには、日本中のあらゆる景色を目にしたであろう苦行の7年間があり、万里の波頭を乗り越え、世界都市、長安にも行った空海様の心に浮かぶ風景とはどんなものだろう。


映像を仕事としている私たちも、そんな景色に出会い、永遠に残したいと思うが、ハイビジョンや、4Kではなく、1000年以上たった私たちの心を騒がせてやまないのは、空海様の選んだたった16文字。空海様にはかなわない。

2013年11月14日木曜日

ヒューマンコメディ「素敵な金縛り」

三谷監督の「清州会議」が週末封切り。相乗効果を狙って、土曜日の夜に、恒例のごとく監督の過去作品をTVでやってた。
「素敵な金縛り」劇場でもレンタルでも見ていないので、初めて見た。
被告人のアリバイを証明するため、裁判の証人として、事件当夜、被告人を金縛りに合わせた落ち武者の幽霊を引っ張りまわすという、へんちくりんな話。
ビリーワイルダー、ニールサイモンを敬愛する監督。今回は、これも監督の愛するフランクキャプラ監督の映画「スミス都に行く」に出てくる、「ヤンキー・ドゥー・ドゥル」という民謡、日本人には「アルプス一万尺」で知られている曲が、最後に効いてくる話だ。
西田敏行の落ち武者ぶりも、おもしろいが、最後はきれいなヒューマンコメディにまとめてくるところは、観てて安心。
このヒューマンコメディという単語、日本では、森重久弥さん、フランキー堺さん、寅さんあたりの映画に使うのだろうか?
そのものずばり『人間喜劇』というタイトルの小説がある。劇作家ウィリアムサローヤンの作品だ。アルメニアという国の移民で、のちに劇作家として成功するサローヤンが書いた小説。昔人に勧められて読んだ。面白かった。少年ホーマーを中心に街に起こる小さな、そしてその人にとっては大きすぎる出来事が静かにつづられている。やがてそれは自分の身内にも・・・・。『人間喜劇』は戦場の描写はないけど、戦争の悲劇が書かれている。ただ、それを乗り越える人間の希望という、わずかだが力強い営みも描かれている。冒頭だったか、最後だったか、故郷に帰るであろう黒人の若者が、貨物列車から手を振るシーンは、今でもなぜか映像で残っている。
「ヒューマンコメディ」は、社会への批判もある。三谷監督もこの映画の中で「死んだ人間が法廷に出れば真実が明らかになる」と、冤罪の多い、検察の有罪率の異常に高い日本の司法に、くぎを刺すことも忘れていない。

さあ、TV局の思惑通り、「清州会議」観に行っちゃおうかな。

2013年11月6日水曜日

司馬さんとキーンさんから東北へのエール

司馬遼太郎さんとドナルドキーンさんの対談「世界の中の日本」を読んでいる。二人はともに日本の歴史と文学に造詣が深い、さらにそれを面白く、そして愛情をちりばめて語る能力を持ち合わせた稀有な存在だ。残念ながら、司馬さん亡き後は、この二人が繰り出す芳醇な日本語に接することはできないけど、私たちは活字で楽しむことができる。
 この対談は、近世の日本文学、演劇、美術、日本語、他国の言語、明治の文学者、絶対神、宗教と様々なテーマにわたる。「お父さん」「お母さん」という言葉は、明治30年代に作られた(それまで使われなかった)。神式の結婚式は大正時代に始まった。英語の80%はフランス語由来。次々に新しい事実を知り、そこそこ読書量が多いと思ってきた私でも、改めて「無知」であることを思い知らされる。

 さてこの本の中で、芭蕉について、こんなくだりがある。芭蕉が宮城県の多賀城の「壺碑」をみて、「自然こそむなしいが、手で書いたものは永遠のものだ」と感動する話が出てくる。教科書に出てくる「奥の細道」で、芭蕉自身、中国の唐代の詩人、杜甫の「国破れて山河あり・・・・」の詩を引用し、自然の永続性、人の世の無常ているが、実はまったく逆のことを言っているという。
 震災で巨大な津波が大地を根こそぎ削り取り、多くの人の命のみか、その人が生きていた痕跡まで洗い流していった。震災後、亡くなった人についての手記を書いている遺族のことがたびたびTVで取り上げられることがある。亡き人への言葉がノート数冊びっしり書いているのもある。
 自然が永遠で、人の生が無常とすればそれは、むなしい。芭蕉は、「奥の細道」でそう表現しながらも、本音は「自然こそむなしいが、手で書いたものは永遠のものだ」とすれば、今日も手記をつづる人には、心強いものがある。

 芭蕉のそんな言葉を拾い上げてくれた二人、本の中から、東北にエールを送っていてくれているようで、ちょっぴりうれしかった。