2013年11月6日水曜日

司馬さんとキーンさんから東北へのエール

司馬遼太郎さんとドナルドキーンさんの対談「世界の中の日本」を読んでいる。二人はともに日本の歴史と文学に造詣が深い、さらにそれを面白く、そして愛情をちりばめて語る能力を持ち合わせた稀有な存在だ。残念ながら、司馬さん亡き後は、この二人が繰り出す芳醇な日本語に接することはできないけど、私たちは活字で楽しむことができる。
 この対談は、近世の日本文学、演劇、美術、日本語、他国の言語、明治の文学者、絶対神、宗教と様々なテーマにわたる。「お父さん」「お母さん」という言葉は、明治30年代に作られた(それまで使われなかった)。神式の結婚式は大正時代に始まった。英語の80%はフランス語由来。次々に新しい事実を知り、そこそこ読書量が多いと思ってきた私でも、改めて「無知」であることを思い知らされる。

 さてこの本の中で、芭蕉について、こんなくだりがある。芭蕉が宮城県の多賀城の「壺碑」をみて、「自然こそむなしいが、手で書いたものは永遠のものだ」と感動する話が出てくる。教科書に出てくる「奥の細道」で、芭蕉自身、中国の唐代の詩人、杜甫の「国破れて山河あり・・・・」の詩を引用し、自然の永続性、人の世の無常ているが、実はまったく逆のことを言っているという。
 震災で巨大な津波が大地を根こそぎ削り取り、多くの人の命のみか、その人が生きていた痕跡まで洗い流していった。震災後、亡くなった人についての手記を書いている遺族のことがたびたびTVで取り上げられることがある。亡き人への言葉がノート数冊びっしり書いているのもある。
 自然が永遠で、人の生が無常とすればそれは、むなしい。芭蕉は、「奥の細道」でそう表現しながらも、本音は「自然こそむなしいが、手で書いたものは永遠のものだ」とすれば、今日も手記をつづる人には、心強いものがある。

 芭蕉のそんな言葉を拾い上げてくれた二人、本の中から、東北にエールを送っていてくれているようで、ちょっぴりうれしかった。


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